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バルト3国基本データバルト3国基本データ

各国の基礎データ

エストニア ラトビア リトアニア
Eesti Latvija Lietuva
地図 エストニア地図 ラトビア地図 リトアニア地図
国旗 エストニア国旗 ラトビア国旗 リトアニア国旗
人口 135万人
(エストニア人68%
ロシア人26%
フィンランド人1%
その他5%)
232万人
(ラトビア人58%
ロシア人30%
ベラルーシ人4%
ウクライナ人2.5%
その他3.5%)
348万人
(リトアニア人83.5%
ロシア人6.3%
ポーランド人6.7%
その他6%)
面積 45,227k㎡ 64,589k㎡ 65,300k㎡
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バルト3国の歴史

古代~12世紀

 ラトビアのルバンス湖の中ノ島から発掘された骨製のやじりは、バルト地域に約1万年前から人類が存在していたことを今に伝えています。紀元前3000年頃、東方からフィン・ウゴル族がエストニア地域に、そして2000年頃にはリトアニア・ラトビア地域にバルト族が移住し、それまでの先住民と共に、自然の法則に即した平和な暮らしを営み始めます。 森の木を切るときは森の神様に、熊を狩るときは熊の魂に祈りを捧げ、自然を大切にして生活していました。この頃から中世に到るまで、このバルト海沿岸東南地域(現ラトビア・リトアニア地域)は東西南北交易の主要なクロスロードとして栄え、人々の交流の場となっていました。「太陽の石」と呼ばれた琥珀は、時として金よりも珍重され、 その価値は遠く古代ギリシャやローマ帝国まで知れ渡っていました。ユトランド半島やスカンジナビア半島のノルマン人、いわゆるヴァイキングが8世紀末には東の交易ルートを確保するためにバルト海を渡り、さらに「琥珀の道」を経て南はローマへ、東はダウガヴァ川を上ってロシアへと活動の幅を広げていったのです。

10世紀に入るとエストニア人、リーヴ人、ラトガレ人、クール人、ゼムガレ人、セロニア人、サモジチア人などバルト、エストニア族の先祖達は、それぞれ自らのクニを形成し始めますが、12世紀にはバルト海沿岸に住んでいたクール人は「バルト・ヴァイキング」として名をとどろかせるようになり、一方内陸部にいたセロニア人やゼムガレ人は温厚で裕福な農耕民族として知られるようになっていきます。しかし10世紀にはスカンジナビアのヴァイキングやキエフ・ルーシ(現ロシア)、1112世紀にはユトランド半島のデーン人(現デンマーク)、にたびたび侵略されています。今も地名や島の名前に当時の権力の名残が残っています。

13世紀

  12世紀末頃になると、ドイツ人商人がロシアとの貿易を求めてラトビアのラウガヴァ川を上り始め、それに伴い同行した宣教師はバルト、フィン・ウゴル族のキリスト教化を図り、活動を始めます。しかし汎神論堅持のバルト族の人々は外からの宗教とりわけキリスト教に強く抵抗したため、是を耳にしたローマ教皇はゲルマン十字軍をバルトに送り込み強制的に改宗させました。1201年ドイツ、ブレーメン大司教の甥アルベルトが、バルト海河口から13km遡ったダウガヴァ川沿いの地に町を築きました。これが現在のラトビアの首都リーガです。

一方エストニア族にはドイツとデンマークによる北方十字軍が押し寄せ、同じようにキリスト教化が進められ、最後まで戦ったサーレマー島は1227年、クールラントの人々は1230年に強制的にキリスト教徒に改宗させられました。